ACT4-01:策士、策に溺れる


「そろそろヤバそう………ウップ! 逃げよう」

 青い瞳を持つ細身の少年、闇沢武志はこみ上げる吐き気を必死に耐えながら寝室を
出た。足音を立てないように気を使いながら、静かに居間を横切る。
 強者どもが夢のあと。居間には弥生家一同が酔いつぶれて寝ているのだ。

(こいつらに付き合っているとロクな目に合わない!)

 闇沢の頭は、二日酔いで割れそうに痛かった。
 機動隊に囲まれているという環境下で日夜行なわれていたこと……それは、あろう
ことか連日の宴会だったのである。
 備蓄していた日本酒、洋酒の類は篭城生活から一週間と保たなかった。しまいには
ルイスの薬品庫からくすねてきた薬用アルコールを番茶で割って飲むという、まるで
第2次世界大戦時の軍医さんのようなマネまで始まっていた。
 早くから酒に酔いつぶれたという芝居を打ち、宴会の納まるころを見計らって脱出
を図るという闇沢の計画は、見事に成功しつつあった。
 闇沢の手には、彼が弥生家の住人であるという宣誓書がしっかりと握られている。

『弥生家の一員として暮らします。ついては、ただちに引っ越して参ります』

 そう書かれた宣誓書の下には、しっかりと闇沢のサインが青ボールペンで書かれて
いる。それは弥生葉月の計略にひっかかり、無理矢理サインさせられた屈辱の宣誓書
だった。
 法的根拠がある訳ではなし、普通なら無視を決め込むだろうその内容を律儀に守る
あたりに闇沢の(気弱な)人間性が現われているのだが、彼はそれに気付いていない
らしい。……生真面目な彼にとって、逃げる時にその書類を持っていくことは自由を
掴むための1つの課題だった。

(だが、今日でこんな生活とはおさらばです! 書類も取り返したし)

 目の前には弥生家の扉があった。
 手の中には宣誓書がある。もう、闇沢を縛るものは何もない。

「自由だ、僕はもう自由だ!」




 その頃。
 弥生家を包囲している機動隊に、新しい命令が伝えられていた。

「何だって、そんな馬鹿な!」

 その命令を受けた機動隊員たちは、怒りの色を顔から隠さなかった。
警視庁第一方面本部警備部長からの命令は、出動命令の時と同様に一方的なものだ
ったのだ。

『状況からみて機動隊が出る必要は無くなった。早く帰ってこい』

 彼らとて、ピクニックにきたのではない。
 ガキども(弥生家御一同)にさんざん煮え湯をのまされ、寒さに震え、辛い思いを
して耐えてきた機動隊員たちにとって、この命令はあまりにも納得がいかなかった。

「馬鹿抜かすな! このまま帰ったらいい笑い者じゃねえか!」
「冗談じゃねぇぞ!」

 隊長は怒鳴り声をあげた。
 このまま引き揚げたのでは、機動隊のメンツはどうなるのだろう? 怒りに震える
機動隊員たち。
 そんな中に、自由になったばかりの小羊さんが降りてきたのは不運というより他に
ない。

「おい、6階の階段横の雨樋いにガキが一人いるぞ!」
「捕まえろ!」
「タコ殴りじゃあ!」

 ……6階の雨樋いにぶら下がったままの闇沢には、どうすることも出来なかった。
怖いおじさんたちが、引きつった笑いを浮かべて手招きをしている。

 策士、策に溺れる。

 闇沢は、階段のところに機動隊が網を張っているのを知っていた。知っていたから
こそ、雨樋いを伝って下へ降りようとしたのだ。が、見つかってしまえば逆に身動き
が効かないのだった。
 笑うしかない闇沢に、怖いおじさんたちはもう一度黙って手招きをした。

「は……ははは……あーれー!」
「そーれ、こっから先は大人の時間ぢゃい!」




ACT4-02:引っ越し苦労


『住宅公団より、公営縁島団地A棟にお住まいの方々へ御連絡申し上げます。A棟は、
崩壊する危険性が高くなりました。これにより、A棟へお住まいの方全員に退去して
頂くようお願い致します。公団は、代わりの住居としてF棟を提供致します。何卒、
公団側の意図を理解して頂き、指示に従ってF棟へお引っ越し下さいますよう重ねて
お願い致します−−−住宅公団でした』

 退去命令は団地内のスピーカから繰り返し流されていた。
 A棟の補修は既に不可能である、一度壊すしかない……公団上層部は、ついにA棟
からの全面退去を決意したのである。




「教授、荷造りは総務課が行います!」
「うむ……では、千尋くんと相談してやってくれたまえ」

 突然の引っ越し。だが、白葉教授にはあまり苦労がない。
 引っ越しなら彼のかわいい教え子たち……優秀な農業工学科の秘書課や総務課職員
が、放っておいても全部やってくれるだろう。むしろ、のこのこ白葉が出ていっても
邪魔になるだけだ。
 しかし、これは例外。一般人は突然の引っ越しに大慌てだった。


「ああああ……重い! 本が重い」
「ラムはん、きばっておくれやす!」

 京都訛りを操るドイツ人、白葉衿霞の熱い声援を受けながら、インド人のシータ・
ラムは必死になって唐草模様の風呂敷包みを引きずっていた。
 中に入っているのは本。それも、環境工学から自動車工学、家庭の医学に至るまで
ありとあらゆるジャンルにわたる資料である。
 科学全般について広く浅く勉強し、いわば『工業学』というべきものを探そうとし
ていたラムは、自宅に山のように本を持ち込んでいたのだ。それが、引っ越しの荷物
になろうとはあまりにも酷い話であった。

「お……重いぃぃぃ!」
「きばっておくれやす! いま、ウチが力持ちになれる呪文をかけるどす!」
「力持ちの呪文?」

 聞き返すラムの前で、衿霞は目をつぶって呪文を唱え始めた。

「オスモウサンヨリチカラモチィ。ゾウガフンデモコワレナイイイィ!」

 ……なんか、ソレ違ってない?
 この後、引っ越し先のF棟まで、荷物運びをあと10往復しなければならないラム
は、どうしようもない脱力感に悩まされながら作業を続けるのだった。




 引っ越しもまた、それぞれの生活の中の小さなドラマなのかも知れない。
 住人たちの中で引っ越しに一番強烈な拒否反応を示したのは富吉直行だった。

「いやだっ! オレは絶対にいやだっ!」
「しかし、ここはもうじき崩れるんですよ」

 それでも、富吉はドアにしがみついて離れようとはしなかった。
 ……富吉にも、守らなければならないものがある。

 ルフィーア……ルフィーア・ウエストストーン。

 どういう素性の少女なのか富吉は知らない。
 そして行方もまた知らない。ただ、その少女をかくまったことがあっただけだ。
 しかし、富吉はどうしても彼女を忘れることが出来なかった。

「想い出の詰まった部屋はF棟の部屋じゃない、ここなんだっ!」

 例え構造はF棟の部屋と同じでも、ルフィーアの想い出が詰まった部屋はここしか
ない。その部屋を守ろうとしている富吉の姿は、野次馬住民たちの涙を誘った。
 だが、崩れる前に誰かが富吉をドアから引き剥さねばならない。

「あんまり、気分がいいものではないですな」
「おお、そーだ! 町内会長のジーラくんにやらせましょう、住民の安全を守るのは
町内会長として当然の義務ですからなあ!」
「そりゃあ名案ですなあ、はははははは」

 野次馬の無責任な発言もまた、町内会の構成員としての発言である。町内会長は、
もちろん町内を住みよい環境にする責任を負って(もしくは、負わされて)いるのだ。

「なんとかお力を貸してくれませんかねぇ?」
「ジーラ町内会長しか、わたしたちには頼るべき人がいないわ」
「よっ、町内会長!」
「あ、そーお。へへへへ」

 縁島団地町内会長、ジーラ・ナサティーン。
 ……この外人姉ちゃんは、人に頼られるのが好きだった。
 よって、お世辞にはめちゃくちゃに弱い。野次馬たちの調子のいい一言で、あっと
いう間にかつぎ上げられ、汚れ役を押し付けられたのにも気がついていない。

「オレはここから一歩も動かんぞ、ジーラ!」

 説得にきたジーラを、富吉はにらみつけた。
 しかし、ジーラも今回は引いたりしない。なぜなら、ジーラには町内会長としての
責任と義務がある(と、信じ込まされている)からだ。

「そんなコトをいってもダメよ。ここは崩れるんですからね、退去よ!」
「離せ! ジーラ! 離しやがれぇ!」
「仕方ないわね、それでは強行手段よ!」

 ジーラ・ナサティーンは怪力だった。
 それも半端な怪力ではなかった……例えていうなら、抱きしめるとコンクリートの
電柱がピシピシと音を立てるほどの怪力女だった。
 対する富吉は多少は鍛えてあるといえ、まともな人間である。そんな熊みたいな女
に捕まって、無事で済む訳もない。
 富吉は、勢い余ったジーラの馬鹿力でドア向いの壁へ叩きつけられた。

「げはっ!」
「今だ、野次馬のみなさーん!」
「かかれぃ!」

 毛布を持った主婦と、ロープを持った女子高生が富吉へと飛びかかった。
 す巻きにされた富吉の絶叫が、毛布の間から聞こえてくる。

「いやだっ、ルフィーアぁぁぁ!」

 ……少しかわいそうな気もするが。
 住民たちは、彼をす巻きにしたままF棟へと運んだのだった。




ACT4-03:艱難辛苦を玉にキズ


 必死になってしがみついていた雨樋いから引き離された闇沢は、まるで羊の品評会
で引き出された小羊だった。ただ、なぜかバイヤーたちの手には警棒が握られていて、
彼らは小羊をそれで痛めつけようとしている。

「ここで会ったが百年目、いよいよ貴様も年貢の納め時だ!」

 機動隊員たちは、やっと雪辱を晴らせるとあって喜々として警棒を握った。
 彼らにさんざん煮え湯を飲ませたガキどもの一人を、こてんぱんにし、痛めつけて、
それでもって報告書に、

『暴れたので押えつけたら、怪我しました』

 と、書くのだ。
 不精ヒゲを伸ばした隊員が、闇沢に微笑む。

「ふっふっふ……怖くなんかないよ。おじさんが痛くないようにしてあげるからね」
「ひーっ! 誤解ですっ!」

 言い訳など、機動隊員たちは聞くつもりもない。

「5階婦人服売場も6階ベビー用品売場もないわ! かかれっ!」

 男にしては小柄な闇沢に、有無をいわせず脂ぎった中年の躰が二つ三つと折り重な
っていく。お母さん! と、叫ぶ青年の悲鳴は階段に虚しく消えていった。

 


Illustration by Makoto Anzai & Paint by Daisuke Moriyama

 

 ……もとい(表現自主規制)。
 小柄な闇沢に、機動隊員たちは取り囲んで蹴る殴るの暴行を加えようとした。

「お待ちなさい! あなたたち、何をしているの!」

 天の助けか! その時、凛とした鋭い声が階段に響いた。
 雪のように白い肌、少し茶色のかかった金色の髪……その声の主に、闇沢は見覚え
がある。せっぱつまった状況の中で、闇沢は彼女に救いを求めた。

「五月さん!」
「あら、いじめられていたのは闇沢くんだったのね?」

 弥生葉月の姉、弥生五月。
 シニア・ソムリエ(ワインの選定/鑑定のプロフェショナル)を仕事とする彼女は
弥生家の一員でありながら、生来の遊び癖が幸いしたのか今回の『弥生家篭城事件』
には一切関わっていない。
 彼女は2カ月前にふらりと家を出たまま、どこへいったかもわからなかったのだ。

「失礼ですが、あなたはこの青年とはどういう関係です?」

 二人が知り合いだと判断した機動隊長は、弥生五月に質問した。
 機動隊長の口調から、事態が弟の葉月に絡んでいるらしいということに、五月は気
がついた。これは、答え方次第ではかなりヤバいことに巻き込まれるかも知れない。
 慎重に考えて、五月は弟の友達と答えるところをこう答えた。

「近所にお住まいの方ですわ」
「そうですか。こいつはですね、弥生家の一味です」

 にがにがしげに言う、隊長。

(なるほど、主犯格は葉月と見られているわけね)

 ……隊長のセリフから、五月は葉月の姉であることを隠しとおすことにする。
 ヘタなことをいえば自分も捕まってしまうからだ。

(でも、とりあえず陽動作戦は出来そうね)

 一歩間違えば自身の身も危うい状況。
 その渦中にありながら、五月の心には好奇心がムラムラと首をもたげてくる。

「あら、その子……弥生家とは関わりないですわよ」
「なにっ!」

 隊長の顔がピクリとひきつった。
 弥生家関係者ならいざ知らず、一般市民に殴りかかったとあっては機動隊の立つ瀬
がない。場合によっては、減俸や戒告などの処分も考えられる。

「あの、それはたしかで……」
「ええ、弥生家の人たちとは親しかったみたいですけど、それが何か?」

 『近所のお姉さん』を装う五月の意図を、闇沢もまた理解した。
 震える声の機動隊長に、五月はとどめとばかりに揺さぶりをかける。

「ひょっとしてその子、弥生家となにか関わりがあるんですか?」




 10分後。
 闇沢と五月は、地下駐車場にいた。
 機動隊は身元保証人がいるという取って付けたような理由で、闇沢を釈放したのだ。

「さあ、巻添えはゴメンよ。とっとと縁島を出るわよ!」
「わわわわっ、五月さぁん!!」

 グッドイヤーのタイヤがコンクリートに黒い痕を残すほど、五月はすばやく車を出
した。乱暴な運転に、思わず闇沢は悲鳴をあげる。
 そんな闇沢に向けられたのは五月の冷たい視線だった。

「哀れな亀を助けた浦島太郎のお話は、ここまで。……闇沢くん、あそこにいたって
ことは……弥生家から逃げてきたのね?」
「あ……あわわわ」

 浦島太郎は、いつの間にやら雪女の話になっていた。
 あわてる闇沢の胸ポケットから、五月は宣誓書を抜きとる。
 さっさと破り捨ててしまえばよいものを、律儀にも4つ折りにしてポケットにしま
っておく闇沢の性格が完全に裏目に出た。

「……竜宮城へ連れていってあげるわ」

 闇沢の顔から、血の気が音を立ててひいていく。

「は……はい、竜宮城ってなんですか?」
「行けばわかるわよ」

そしてそのまま車は19号島にある、危ないお城ランキング堂々1位『SMクラブ
竜宮城』の地下駐車場へと吸い込まれていくのだった。

 ……ここから先の話は、あまりにも残酷すぎる話である。




ACT4-04:おいしい食べ方


 A棟前に張られた縁島団地町内会のテントに、麻生真由子は駆け込んできた。町内
会も、A棟からの住民退去が順調にいくように協力することになったのだ。
 もちろん、7階・8階部分を拠点として篭城を続ける『弥生家』が、新生町内会の
抱える大きな問題となっているのは今も変わっていない。
 だが、真由子の持ってきたのはその弥生家問題の解決に向けての、明るいニュース
だった。

「井上教授、機動隊が退去を始めたみたいです!」
「そうか! やはり正義は勝つのだね!」

 嬉しさに顔をほころばせながら、井上教授は食べていたおにぎりを口からポロポロ
とこぼした。町内会でも今回の騒ぎにあまり影響を受けなかった、B棟やC棟などの
主婦たちが夜食を差し入れてくれたのだ。

「井上教授、食べるか喜ぶかどっちかにしてくださいね」
「いやいや、すまないね……うが、んぐっ」

 サザエさんのような声を出して、井上の顔色が突然変わったのに真由子は驚いた。
 真っ青になった井上は震える手で何かを求めている。

「どうしました? 井上教授!」
「……お……お…お茶」

 あわてて食すことなかれ。
 どうやら、おにぎりを1つまるごと呑み込んでしまったようであった。喉に食べ物
がつかえた時の苦しさは、当人にしかわからないものである。




『退去命令が出された公営住宅A棟ですが、今、新しい動きがありました。機動隊で
す! 機動隊が退去を始めました! まだ、中には今回の騒動の中心人物と思われる
Yくん(仮名)をはじめ、何人かの少年少女が篭城したままです! いったい、どう
なってしまうのでしょ……あっ!』

 ASの電波中継車の横でニュースを読み上げていた報道部のアナウンサーは、近付
いてきたアシスタント・ディレクター(AD)にいきなりマイクを奪い取られた。

『展開はいよいよ予断を許さぬ状況となってきました。我々AS取材班も、崩れかけ
た公営住宅に突入し決死の撮影を敢行します。Yくんたちは、この状況下でどんな事
を考えているのでしょう? 我々は暴走する若者たちの心に、せまりたいと思います! 突入班の班長は……』

 未成年ということで、弥生葉月はYくん(仮名)という扱いになっていた。それで
も当初の報道は、どさくさにまぎれて弥生葉月と実名だったのだから、いまさらYと
いわれてもバレバレである。
 マイクを取られ、あぜんとする報道部のアナウンサーの視線をものともせず、AD
は一気にセリフを続ける。

『突入班の班長は、私、紫沢俊が勤めさせて頂きます!』

 一つの冒険だった。
 数日前レジャーランドSNSで、公営住宅A棟がいよいよ崩れるという話題を聞き
つけた俊は、弥生家の『まだ大人になりきっていない子供たち』の身が心配だった。
そして俊もまた、特ダネを求めるマスコミ学科の人間だった。

『マスコミの飯を多く食べるためには、まず遠慮してはいけないわ。居候は3杯目に
はソッとだし……なんて遠慮深いことわざがあるけど、アレはマスコミ向きじゃない
わね。ね、思うんだけど紫沢くん、やっぱり特ダネという御馳走を思う存分に食べる
ためには、やっぱり一人で食べなきゃおいしくないと思うの。だからね、きっとAS
でスタンドプレイの出来ない人はみんな落ちぶれて、信楽焼の狸の置物にしがみつい
て涙を流さなきゃならなくなるんだわ』

 ……俊の上司、ASでも売れっ子のディレクター、根戸安香の含蓄ある言葉が鮮烈
に俊の脳裏に浮かび上がってくる。
 これはスタンドプレイだ。だからこそ、失敗は許されない。


 ……そして、俊にはもう1つ隠された使命があった。




ACT4-05:酒が無いのは耐えられない


「葉月、残念ながらここまでだ。退去しよう」

 黒沢世莉は強い口調で葉月に詰めよった。
 しかし、この状況下でなおも葉月は主戦論と篭城を唱えて首を縦にはふらない。

「機動隊は退却したではないか、トルコ人どもは我々に恐れを為したのだ。その証拠
に見ろ! 誰も弥生家には近付いてこないではないか!」
「葉月のスカポン野郎。それはここがいよいよヤバいからだろうが」

 ……ぎぎぎぎぎっ…
 世莉がそう切り返した時、公営住宅全体が不気味にきしんだ。

「なんだ、今の音は?」
「だから、ここはヤバいんだよ」
「……わかった」

 きしむだけならまだいいが、公営住宅A棟は除々にひび割れが多くなっているよう
だった。いくら葉月でも、毎日見ていればその程度はわかる。
 それに、致命的なことには……酒がない。毎日の宴会で呑み尽くしてしまったのだ。
ルイスの薬品庫からくすねたのも、昨日一滴残らず番茶割りにして呑んでしまった。
残っているのは工業用アルコールだけだ。これを呑み尽くしたら、もう酒はない。

(注記:工業用アルコールは呑めません。呑むと失明の恐れがあります(笑))

 おまけに、闇沢武志が逃げた。
 酔っぱらっている隙に卑劣にも約束を違え、仕事である洗濯と食器洗いと便所掃除
と炊事を放棄して逃げたのだ。葉月には、闇沢の行いは許しがたいものだった。
 更に、大したことじゃないが食い物がない。
 塩も味噌も米も切れた。パンが無ければケーキをたべればいいじゃないの……と、
かつてマリー・アントワネットもいったというから、何か食べ物の代用品を探せば
見つかるかも知れない。
 ……弥生葉月は、重要度というものを完全に取り違えている。

「とりあえず、女の子を逃がす準備だけはしておくからな」

 世莉は、一応それだけ葉月に連絡を入れておいた。
 ……実は、脱出プランは既に世莉によって完成していたのだ。




ACT4-06:若い頃の苦労はしたくない


「一応、これで住民の避難は全て終わったみたいです」
「て、ことは……あとは弥生家の連中だけね」

 遥の言葉にジーラがうなづく。


 水原遥と、広田秋野、麻生真由子、そして町内会長のジーラ・ナサティーンはA棟
4階の階段にいた。
 4階の階段でさえ、もうかなり亀裂が出来ている……A棟がその自重に耐えかねて
崩壊するのは、もはや彼らの目から見ても疑いようがない。

「これじゃあ……一刻も早く、助け出さないと」

 広田秋野は、周囲の様子をみて焦りを隠せなかった。
 機動隊の退去によって、たしかに町内会側は弥生家との直接交渉ができるようにな
った。しかし、裏を返せば『機動隊が退去を決意するほど、危険な状態』なのだ。
 そのようなところへ彼らは、町内代表として自治と平和を守るため、弥生家の説得
へ赴かなければならないのだった。

「かなり危険だ……と、思う。水原さんと真由子くんは戻ったほうがいい」

 途中の道のりは、どこでどうなるかも予想がつかない。もしかしたら突然、天井が
崩れ落ちる可能性だってある。かよわい女性(ジーラを除く)を連れていくのは極力
避けたかった。

「いいえ、群島連絡事務所の職員として、わたしは行かなければなりません!」
「あたしも! 弥生家のみんなを説得するには、あたしも役に立ちます!」

 二人の意志は予想以上に堅い。遥は、仕事に対する使命感の為に。真由子は、弥生
家のみんなを助けたいという目的の為に。

「どうやら、言っても無駄のようだね」

 ……この二人を説得したところで、聞くはずもないだろう。
 広田は、やれやれという感じで手をあげた。




 階段が使えないという場合も考え、広田は大きめのザックにピッケルやザイルなど
の登山用具を用意するという完全武装だった。
 ……いつもと変わらないジーラと対比すると、まったくこの連中は何をしにいくの
だろうと思わず考え込んでしまいそうだ。

「じゃあ、いくわよ」

 ジーラは5階への階段に足をかけた。
 しかし……二歩目は踏み出せなかった。なぜなら、下の階から町内会長の足を餓鬼
のようにひっぱる声が聞こえてきたからである。

「町内会長! F棟のゴミ捨て場がカラスにやられててひどいのよ!」
「F棟の1階の蛍光灯が切れてるの。付けて下さい!」
「会長さん、今、妙な押し売りが来てて!」
「電話が通じないんですけど」
「大変なんです、うちのひと会社へいったきり戻ってこないんですう!」
「最近、娘が不良グループと付き合っているみたいなんですが……」
「下痢が激しいんですけど、薬持ってませんか? 会長さん」
「ウチで飼っているポチが逃げたの……会長さん、お願い捜して」
「すいません、米を貸して下さい……」

 ジーラは、その時になってやっと前任者……前の町内会長のことを思い出した。

 野犬やノラ猫が喰いちらかしたゴミを、いつも黙って片付けていた。
 たとえ夜中であろうとも、文句一ついわず電灯を取り替えていた。
 迷子の子供を探していた。
 壊れた物置を日曜大工で直していた。
 そんな地味で目立たぬ苦労の末に、老人の眉間に深く刻まれた皺。

(ああ、あのおじいさん! そーいえば、朝の6時くらいから、夜遅くまであたりを
うろうろしていた……あのおじいさんが、前任者だったんだ!)

 ……今ごろ気付いても、既に手遅れなのはいうまでもない。
 雪崩のように押し寄せてくる『住民の願い』に、町内会長ジーラ・ナサティーンは
表情を凍り付かせていた。




 足を止められたジーラを目にして、遥と真由子は顔を見合わせた。

(この四人の中で、あたしたちが一番足を引っ張る……)

 それは疑いようもない事実だ。
 しかし真由子の心には、一瞬のためらいがあった。

 助けに行きたい。

 それは弥生家のみんなを救うための最善策ではないのかも知れない。
 ……唇を強く噛みしめて。
 真由子は自分の口からその言葉を切りだした。

「構わずに弥生家のみんなを助けに行って下さい! あたしと遥さんで住民の要望は
なんとかしてみます!」




ACT4-07:手段は同じ


 公営住宅A棟の、雨樋いの下で三人の男たちがフックやザイルを並べていた。
 ASから辛うじて借りることのできた携帯用カメラと、登山用具一式……これが、
紫沢俊率いる『AS突撃取材班』の全装備だ。
 『AS突撃取材班』の、崩壊の始まっている建築物へ侵入するという命がけの取材
内容から考えると、余りにも貧弱な装備とスタッフだった。

「機材は貸してやる。が、そんな危険なところにスタッフは貸せん! ADの分際で
勝手なことをした責任がどんなものか、貴様もマスコミの人間ならわかってるだろ?
後は自分で絵を撮ってくるんだな! できなきゃ、貴様はそこまでで終わりだ」

 ……編成局長のお言葉は俊が予想していた怒鳴り声ではなく、抑揚のない冷たい声
だった。内容は、俊が思っていたよりも厳しい。
 何のバックアップもなしで、損害を出すことなく成果もあげなければならない。
 できなきゃ、クビ! そうなれば、信楽焼の狸の置物に取りすがって泣くのは自分
だ。

「では、みんな……はっきりいって危険は覚悟の上だが、いいんだな」
「ああ、どうしても修子を助けに行く」

 先ほどから何度も繰り返し念を押す紫沢俊の言葉に、小柄ながら機敏そうな印象の
青年−−三輪祝詞は、決意に変わりはない! と、左拳を固めた。
 その横でザイルや懐中電灯などの点検に余念のない、丸い眼鏡をかけた年長の男も
作業の手を休める。

「俺も、説得に行くつもりに変わりはない」

 一人は、ASのアシスタント・ディレクター。一人は、親の仕送りとアルバイトで
生計を立てる洋上大学生。もう一人は、喫茶店『うぃんずている』のマスター。
 一見、なんの関わりあいもない彼らが何故、弥生家の取材へと向かうのか? それ
は数日前のことだった。




「弥生家は、抑圧された子供たちの象徴だと思う」

 ASの関係者として、そして彼らに取材を行なったことのある俊の言葉を聞きつけ
た二人……それが、三輪祝詞と箕守礼一だった。
 群島最大のレジャー施設、SNSでくつろいでいた彼らは、偶然にも今回の事件の
発端である『弥生家』について話し合う機会を得たのだ。
 大事な人が弥生家の篭城メンバーに加わっている。だから、どんな危険があっても
助けに行かなければならない……抹茶アイスに銀のスプーンを突き立てながら、そう
語る三輪。
 そんな三輪を横で見ていた箕守が口を開く。

「弥生家の連中は、追いつめられて自暴自棄になっているだけだ。しかし、このまま
篭城を続けることに対しては疑問が出てきていると思う」

 箕守は、自分が十代だった頃のことを思いだしていた。
 理解のない大人たちには、何をいっても無駄だと失望したあの頃……限界を勝手に
決められてしまう今の社会。そんな社会に対して十代の箕守が思っていたことが、彼
よりもっと強く表れたのが弥生家だとしたら……

「きっと、弥生家のやつらと大人たちの常識の枠が……ほんの少し、ズレていただけ
なんだと思うよ。理解が足りなかったんだよ、彼らも、そして彼らを取りまいている
大人たちも」

 誰か、大人が彼らのことを理解しようとしてやらなきゃいけない。そう考えた箕守
は、自ら説得に行くといいだしたのだった。




 俊は取材にあたり、足りないスタッフの代わりを調達しなければならなかった。
 ディレクターとはいってもまだ下っ端の俊の電話帳には、こんな時に役に立ちそう
な知り合いはまだまだ少ない。

「あ、彼らがいたな」

 その時、俊が思い出したのが三輪と箕守だったのだ。
 ……AS突撃取材班のメンバーは、こうして決まった。




ACT4-08:対エレベーター60分一本勝負


「うわあっ!」

 天井から落ちてきたコンクリートの塊に潰されそうになった広田は、瞬間的に後ろ
へ跳びずさった。

「じょ……冗談じゃないぞ!」

 公営住宅A棟の状態は、広田の予想よりはるかにひどいものだった。6階へ通じる
階段は崩れ落ち、昇ることはできない。廊下を隔てて反対側にあるエレベーターも、
いくらボタンを押しても反応がない。
 ガチガチガチ……諦めの悪い中年親父のように、しつこくボタンを押し続ける広田
の後ろから、金髪姉ちゃんのジーラは顔を覗かせた。

「エレベーターはやっぱり使えない?」

 ジーラは髪を気にしながら広田に問いかける。
 天井からパラパラと落ちてくる埃にまみれて、ザラザラする髪が不快なのだ。

「なんとか上にあがる方法はないの?」
「エレベーターの扉をこじ開けて、上へ出るしか方法がないと思う」

 そう言うと、広田は扉へ手をかけた。
 技術者にしてはがっちりとした体格の広田は、体力には少し自信がある。

「うおりゃああああ!」

 かけ声とともに、広田は渾身の力をこめて扉をこじ開けようとした。

「うおりゃああああ!」
「どおりゃああああ!」
「でやあああっっっ!」
「ふんぬうぅぅぅぅ!」
「ぐおりゃああああ!」

 ふうふう、と肩で広田は息をしていた。
 広田はそれでも懲りずに、再度その手に力をこめる。

「ぬおりゃああああ!」
「ちきしょおぉぉぉ!」
「ふぁいとぉぉぉぉ!」
「だありゃああああ!」

 ふうふう、と肩で広田は息をしていた。
 広田はそれでも懲りずに、再度……

「あんたにゃ開かないわよ。どいて」

 どん! とジーラが広田を突き飛ばした。
 馬鹿力によろける広田をよそに、ジーラはむんずと扉に手をかける。

 ばきっ!

 破壊音とともに、閉ざされていた扉は開いた。
 扉の向こうには黒々とした空間と、エレベーター・ケーブルが見えている。扉は、
まるで4トントラックがぶつかったかのように大きく歪んでいる。

「……これが…人間の仕業か?」

 口を大きく開き、絶句する広田をよそにジーラはケーブルにしがみつくと、上へと
昇り始める。

「ジーラさん、ザイル!」
「いらないわよ、そんなの」

 いらないわ、と言われた広田はその時確信した。
 きっとこの女は元陸上選手かなにかで、不幸な事故にあい、科学の力でサイボーグ
手術を受け、日夜悪と戦っているのに違いない。
 ……広田よ、それはTVの見すぎというものである。




ACT4-09:欧米人にはかなわない


「あ、手が滑った!」
「危ないっ!」

 バランスを崩した三輪の胸元を箕守の手が捕まえた。
 上から心配そうな俊の声が聞こえる。

「大丈夫か? 二人とも」
「ああ……なんとか、ね」

 そういう三輪と箕守の額には、冷汗がつたっていた。
 道具だけはなんとか調達したものの、先頭を昇る俊を初め三人とも、まともな登山
経験がないのだ。もちろん、ザイルの結び方など知るわけもない。

「とりあえず玉結びにしておけば、ほどけませんよね?」
「ほどく時はどうする?」
「ハサミで切ればいいっスよ」

 これでは、冬山に防寒着なしで登るようなものである。
 ……AS取材班は、万事こんな感じで無謀に突撃していたのだ。下へ落ちれば命が
ないという状況下、彼らは果敢(もしくは無謀)にも7階に到達しようとしていた。

「そろそろ7階だぞ」

 俊が7階階段の手摺りへと足を伸ばす。

「くっ……」

 足は、届かなかった。
 平均的日本人より長い俊の足だったが、それでも消化吸収のいい牛肉ばかりをレア
で喰いまくっている欧米人にはかなわない。いくら日本人の発育が良くなっても、腸
が長いのというのは日本の伝統。それを俊も遺伝子レベルで受け継いでいるのだ。

「くっ……あと少し」

 しかし、俊にも意地というものがある。短足じゃない! 距離が長いんだ!
 彼はザイルを揺さぶって、その勢いを利用しようとした。

「うああああ、落ちるう!」
「わあ、落ちるぞ!」

 下の二人の叫び声の、更に下から叫び声があがっていた。




『AS突撃取材班が取材に向かっていますが、足が届かないようです! あ、ザイル
を揺らしています! 下の二人がバランスを崩したようです、危ない!すごく危険な
状態です! やっぱり足が短いのでしょうか? 短い足を懸命に伸ばしています!』

 A棟前に止まっている電波中継車の横で、俊にマイクを奪われたあのアナウンサー
が、カメラに向かってニュース中継をしていた。
 ……いつの間にか、AS突撃取材班そのものが取材対象になっていることに、俊は
まだ気がついていない。そして、足が短い、足が短いと連呼するアナウンサーの声も、
当然彼の耳には届いてはいなかった。




ACT4-10:引っ越し荷物


「ルイス、ダンボール箱はそっちへ持っていってくれ!」

 黒沢世莉はロココ調の長テーブルの四隅を新聞紙で覆いながら、弥生家の引っ越し
を陣頭指揮していた。
 時折、部屋全体が不気味に震動する。

「だいぶ崩壊が進んできたみたいだな。引っ越しを急がなければ……」

 時々感じる不気味な震動は、除々にその間隔を縮めてきていた。階段も6階と5階
の間がごっそりと崩れ落ちている。もはや猶予はなかった。
 が、そんな中でも気楽に物事を考えるのが弥生家風思考術である。
 彼らは前述のロココ調長テーブルを始め、英国製食器棚、黒檀の本棚、40インチ
のTV、総桧のタンスなど大型家財道具もきっちりと荷造りしていた。他にも小物類
はダンボール箱30箱にも及んでいる。
 中でも取扱いに困るのがルイスの薬品類だ。

「あ、それは王水だからガラス瓶でなきゃダメだ!」

 ポリタンクに硫酸や王水を入れようとしているクラレッタを、ルイスが慌ててとめ
ていた。あまりにもずさんな薬品管理である。
 それにしても4トントラック2台分にも及ぶその荷物を、彼らはいったいどのよう
にして運ぼうというのだろうか?




 ばきっ!

 またもや激しい破壊音とともに、7階エレベーターの扉は内側から吹き飛ばされた。
……ケーブルを昇ってきた史上最強の町内会長、ジーラ・ナサティーン嬢が真空跳び
膝蹴りをかましたのだ。

「ひゅー……」

 広田はジーラの馬鹿力について、もう何もいうことはない。ただ一言語るとしたら、
多分こうだろう……『嫁の貰い手があるのか?』
 外国人がいくらパワフルだからって、これでは相手の男もサイボーグか何かでない
と体が持たないだろう。

「広田くん、扉開いたわよ……あれ?」

 廊下へと這いでた彼らの視界を遮ったもの。
 それは、廊下に山と積まれた弥生家の家財道具だった。




「なんとか目的の階に辿りついたな……」
「死ぬかと思った……」

 その頃。
 青ざめた顔をしたAS突撃取材班の三人も、また7階へと辿りついていた。

「あれ、何だろ?」

 最初にそれを見つけたのは三輪だった。
 ルイス家の玄関先とおぼしいそのあたりには、洗濯機からタンスにコンポ、書籍に
至るまで、ありとあらゆる家財道具が山と積まれている。
 アレはいったい……と、絶句する俊に箕守は答えた。
 
「……引っ越しの……ようだな」




ACT4-11:色眼鏡を外してくれ


 公営住宅A棟の7階は、とたんに騒がしくなった。
 階段側から現われた紫沢俊、三輪祝詞、箕守礼一のAS突撃取材班。
 エレベーター側から現われた広田秋野、ジーラ・ナサティーンの町内会代表。
 当事者、弥生家一同。
 この三者が7階の階段で鉢合せしたのだ。

「何をやっているんだ?」

 山積みになっている荷物を見て、広田は質問した。
 だが、それについての黒沢世莉の答えは実にあっけらかんとしたものだった。

「いや、引っ越しするんだ」

 引っ越し。
 それもまたドラマなのかも知れない。住み慣れた家や部屋を後にする時、そこには
必ず何かのきっかけがある。人生の転機、あるいは挫折。栄転、左遷、夜逃げ、転勤、
就学や就職。

(どうやら、説得する必要はないみたいだな)

 昔の自分を思いだしてここまでやってきた箕守礼一は、もはや弥生家の連中に説得
をする必要がないことを悟った。
 既に彼らは自分で自分たちのことを決めているようだ。そんな彼らに説教をたれる
ほど、箕守は無粋にはなりたくなかった。
 三輪祝詞も、当初の目的を見失っていた。
 彼の目的は、弥生家と一緒に篭城生活をしている杜沢修子を彼女のために救い出す
ことだ。その彼女を含め、弥生家が脱出するとなれば問題はない。引っ越しを手伝う
までの話だ。
 しかし、広田秋野はそれではおさまらなかった。

「黒沢くん、きみがしたことの意味がわかっているのか?」

 首謀者、弥生葉月の姿は見えない。
 広田はやむなく弥生家のNo.2(実質的な指導者)、黒沢世莉をにらみつけた。
 彼らが全部悪いという訳ではないというのは、広田にもわかる。しかし、彼らは
『公営住宅の破壊』や『崩壊寸前の住宅へ篭城』などを、現実にやったのだ。
 同情の余地があるからといって不問に付すことは、広田には出来なかった。若い
から、青春真っ直中だからといっても許せるものと許せないものがあるのだ。

「……でも、そんなに悪いことをしたのか? たかが壁や床を壊しただけだろ、それ
が機動隊に取り囲まれたり、まわりの大人たちに口うるさく罵倒されなきゃならない
ことなのか! やつらは、オレたちの意見なんかこれっぽっちも聞きゃしなかった!
あいつらは、最初からオレたちのことを色眼鏡で見ていやがったんだ!」

 ……静まりかえる廊下。世莉の頬を、一筋の涙がつたう。
 荷物をまとめていたルイスも、クラレッタも、玉乃宙実も、杜沢修子も、雪御冷嘩
も、水無月雪美も、ダンボール箱から首を覗かせているヨハネという蛇もその動きを
止めていた。
 彼らの視線は、広田の眼を一点に見つめている。

(彼らには彼らの言い分があった。それを、誰も聞いてやるやつがいなかったんだ。
いままで……今のいままで!)

 唇を堅く噛んだ世莉を見つめながら、広田は拳を握りしめた。
 例えば、隣の家には何人住んでいるのだろう? 何をして暮らしているのだろう?
何人で暮らしているのだろう?
 それを思ったとき、広田は気がついた。

 地域社会や隣人との付き合いや、心の交流が著しく無くなってきている。

 もちろん、今に始まったことではない。1980年代後半、人口が東京という1つ
の都市へ流入し始めた頃からそれは社会問題化しつつあった。当時の若年層を中心に、
『政治』や『経済』への関心は薄れた。それだけではなく、総ての環境に対して人々
は無関心になりつつあった。
 広田にしても、縁島町内会の存在を知ったのは町内会長選挙があったからだ。それ
がなければ、たとえ隣家で何が起ころうとも関係ないような顔をして日常を暮らして
いたかも知れない。

 他人がどう暮らそうと知ったことではない。

 そういう意識が弥生家の若い住人たちを地域から隔絶し、失望させ、暴走させたに
違いなかった。

「……引っ越しを手伝うよ」

 広田は、もう世莉を責めようとは思わなかった。
 弥生家がこの崩れかけた建物から脱出したとしても、彼らは自分たちの責任を必ず
問われることになるだろう。しかし、それは広田が問うものではない。




「これは?」
「火災脱出用のシュートだ」

 世莉は、7階階段の脇に備え付けてある脱出用シュートのキャビネットを開けた。
白い防火布で作られたそれは、人がすっぽりと入れるような大きさで内部は螺旋階段
のようにぐるぐると仕切られている。
 中に入った人は、その螺旋を回ることにより落下スピードを殺しながら下へ降りる
ことができるのだ。
 三輪が布の入口を広げる。

「逃げるぞ! 女の子から先だ」


 


ACT4-12:脱出開始


 A棟前の電波中継車の前で、紫沢俊に個人的な怨みのあるアナウンサーは、弥生家
におこった新しい動きを中継しようとしていた。

『あ、ただいま7階から何かが降りてきました。あれは、火災脱出用のシュートです!
どうやらYくんをはじめとする青少年たちは、いよいよ脱出する模様です。先に彼ら
と接触しているだろう、短足の我がAS突撃取材班は無事なのでしょうか? 彼らの
安否も気がかりです!』

 アナウンサーは、まだ『短足』を繰り返し連呼している。よほどマイクを奪われた
のに腹を立てているらしい。




「よし、あとは宙実だけだ」

 世莉は、最後に残った女の子−−玉乃宙実に降りるように促した。
 だが、宙実は首を横に振る。

「あたしが降りるのは一番最後よ……だって、あたしにも責任が……」

 そういう宙実の目に涙が盛り上がってくる。
 機動隊に囲まれたり、食料が尽きたり……そんな生活も知らず知らずのうちに宙実
の心を圧迫していた。その状態で宙実は必死に打開策に考えていたのだ。
 どうしたら回りの大人たちと、わかりあえるようになるのだろうか……と。
 だけど答えは出なかった。宙実には、そんな自分が許せなかった。

「責任が……だから、あたしも……」
「だめだ、降りるんだ」

 いつになく厳しい口調で世莉は言った。
 世莉には宙実の気持ちが痛いほどわかった。プレッシャーに耐えていたのは、自分
もまた同じなのだから。
 しかし、女の子をこれ以上危険な目に合わせることはできない。

「きみには下で家財道具を受け取るという使命がある。先に降りてくれ」

 ……黙って袋の口を開く世莉に、宙実は従うしかなかった。




『ただいまAS突撃取材班からの映像が届いたようです。ご覧ください。』

 下で中継していたアナウンサーは、7階からの映像にカメラを切り替える。
 山積みの荷物と、人気のない廊下が映っている。そして何よりも、崩れかけている
天井や手摺りの映像も次々に映し出されていた。
 これは他局では決して手に入れることの出来ない、衝撃的な映像だった。
 スクープだ!

『紫沢さん、現場の紫沢さん! 聞こえますか!』

 興奮するアナウンサーの呼びかけにも、俊の答えはなかった。

『何かあったのでしょうか、紫沢さん! 現場の紫沢さん!』




「箕守さん、何を持ってるんです?」
「ああ、紫沢くんに頼まれたんだ」

 ……箕守は、紫沢が持っていたはずの携帯カメラを抱えていた。
 外へ放送されているのは、実は箕守が撮った映像だったのだ。

「紫沢さんは?」

 三輪の問いに、箕守は首をかしげた。

「さあな、トイレじゃないのかな?」




ACT4-13:騎士団の旗の下に


「よし、次は荷物だ。手伝ってください」

 世莉は、廊下に山積みになった食器棚やTVをシュートの側へ運びはじめた。

「……ちょ…ちょっと! 何を始めるんだ?」
「引っ越し」
「そんなこといったって、こんな大きな家財道具は布の口をめいっぱい広げても入り
はしないぞ!」

 広田たちは世莉の行動に驚いていた。
 残っているのは、どれもこれも大型の家具や電化製品である。人間がくぐり抜ける
のがやっとという脱出用シュートで下に運べるものではなかった。
 だか、世莉の顔には自信が満ちあふれている。

「見ていないで手伝ってくれよ」

 ……世莉は白い布を適当な長さにぶつ切りにしたものを、荷物の荷造り紐にくくり
つけ始めた。何をしているのだろう? 
 黙って世莉を見ていた箕守が興味深げに質問する。

「……それは?」
「消火栓のホースだ」

 ぶつ切りにされた消火栓のホースは、荷物との間にシュートの防火布を挟みこむ形
で固定される。三輪はそれを見て世莉の考えていることを理解した。

「あ、なるほど!」

 世莉は荷物をシュートにぶら下げる形にして下へ滑り落とすつもりなのだ。
消火用ホースは水圧に耐えなければならない関係上、重い荷物をぶら下げても簡単に
は破れはしない。そして最後にシュートの布を捻りあげ、1本のロープのようにして
固定しておけば完成だ。
 いわば、簡易ロープウェーだった。

「最初は宙実の洋服タンスだ、いくぞ!」
「よっしゃあ!」

 世莉、広田、箕守、三輪の四人は力を込めてタンスを押しだした。




「あ、わたしのタンス!」

 7階から滑り落ちてきたのは、宙実が見慣れた彼女の洋服タンスだった。
 世莉の計算はどんぴしゃり! 洋服ダンスはゆっくりとしたスピードで下へと降り
てくる。すべては順調……の、はずだった。

「あっ!」
「ああっ!」
「おおっ!」

 周囲から驚愕の叫び声があがる。そして、宙実の叫び声も……

「きゃああああああ! いやああああ!!」

 引き出しの固定が甘かったのだ!
 無情にも冬の偏西風は、衣類……それも、主に下着類を舞いあげた。




「いやあ、井上さん。なんともいえない光景ですな」
「うーむ、しかしこれは……」

 ひらひらと桜の花びらのように舞い落ちてきた、薄いピンクのパンティを左の手に
堅く握りしめ、井上教授は席を立った。
 ……井上は今回の町内会絡みの話をお茶受けにして、白葉教授とこれから弥生家に
どう接していくべきかを語り合っていたのだ。

「おや、井上さん。どうしたんです?」
「見てごらんなさい、アレを」

 井上の差し示す方向を白葉は見つめた。
 どうやら、洋上大学付属の男子高校生たちのようだった。彼らは拾った下着を笑い
ながら弄んで、こっそりと鞄に入れているようだ。

 どんな使い方をするつもりなのか……それは敢えて語るまい。

 しかし、たとえ彼らが青春の熱き血潮をやりどころもなく持て余していたとしても、
このまま犯罪に突っ走っていくようなことを、井上は良しとは出来なかった。
 エメラルドのカフスが光る右腕に愛用のハンドマイクを握り、井上は大きく深呼吸
をする。そう、正義のボイスで犯罪から市民を守るのだ!

『これは落し物です! そのまま家に帰ると拾得物横領になります。そこの学生諸君、
きみらの悪行は民事事件に携わること30年の、この井上光政が許しません! その
行いを反省し、すみやかに交番へ届けなさい!』

 突然のハンドマイク警告。そんなものをくらえば誰だってビビる。
 もちろん学生たちも例外ではない。

(どーする?)
(なんかヤバそうだぜ……いうことを聞いておくか)

 彼らはハンドマイクで彼らを威嚇する『おじさん』を見て、ヘタに逆らわないほう
がいいと判断した。鞄の中から下着類を出すと、右手に下着を高く掲げる。

「おまわりさーん、落し物です!」

 ……宙実の下着は冬空の下へ掲げられ、北風に舞うブラジャーはロードス騎士団の
団旗のようにはためいた。

 いわゆる、晒しものにされたのである。




ACT4-14:集結!


「水原さん、ASの取材班と弥生家を含めて退去完了しましたよ!」

 A棟前で待機していた人々に、広田から『退去完了』の報告が届いた。
 見事に目的を達成しての凱旋である。三輪と箕守も、弥生家の住民も一緒だ。これ
で、崩れかけたあの建物の中に残っているのは一人もいない。
 が、水原遥と麻生真由子は、ある人物の姿が見えないことに気付いた。

「ジーラさんは?」
「葉月さんは?」

 ……遠くの方では、三輪が『紫沢さん! どこへいったんですか!』と叫んでいる
のが聞こえてくる。そういえば、いつの頃からか姿が見えなくなっていたのだ。

「……すっかり忘れてました」

 ある事実に気付いて、青ざめる広田の声はやけに小さかった。……おそらく、誰も
思い出さないまま置いてきてしまったのだ。




「天気明朗なれども波高し、我が一生に悔いなし! くるならきてみろトルコ人ども、
この弥生葉月が返り討ちにしてくれる!」

 弥生葉月は屋上に立てられたプレハブ小屋の屋根で敵を待っていた。
 もちろん、葉月は崩れかけた建物の中においてけぼりをくったことなど気付いても
いない。そもそも、彼は崩れるという事実そのものを疑っているのだから、危機感も
薄くて当り前である。

「わははははは、風よ吹け! 嵐よ吼えろぉ!」

 崩れかけた建物の屋上で、葉月は自分自身に酔っていた。




「広田も案外中途ハンパなのね、最初の目的を忘れるなんて。そもそも、弥生葉月を
A棟から退去させるのが本来の目的じゃない」

 恐いもの知らずの無謀な女……ジーラ・ナサティーンは、足もとに転がるコンクリ
の塊を器用によけながら、崩れかけた階段を昇っていた。

「いるとすれば、屋上よ!」

 7階にも、8階にも葉月の姿は見えなかった。
 引っ越しの手伝いを始めた広田をよそに、あくまでも弥生葉月を捜していたジーラ。
彼女もまた、広田においてけぼりをくったことには気付いていない。




 紫沢俊は8階の廊下にいた。
 7階のルイス家から8階の弥生家には、天井をぶち破って階段がついているのを、
俊は見つけたのだ。

「やっと一人になれたな」

 俊はあたりを注意深く、見回す。
 一人になるチャンスをずっと待っていたのだ。着替える……いや、変身するために。

 小さいころ、誰もが憧れたことだろう。
 困った時に現われて、悪を退治して去っていくヒーローやヒロインの姿に。弱きを
助け強きをくじく、正義のスーパーヒーローたちの雄姿に。

(僕も大きくなったらスーパーヒーローになるんだ!)

 幼稚園の文集に書いた言葉。俊もまた、彼らの雄姿に魅せられた一人だったのだ。

 だが、大きくなるにつれ夢は現実に押し潰されていった。
 所詮は造りものなのに気付いてしまった時、幼い夢はガラスのように脆く砕け散る。
ウルトラマンの背中についているチャックや、ジェットビートルを吊すピアノ線……
その存在に気付いた時、ヒーローたちはいつの間にかブラウン管の中から消えていた。

 だが、深く傷ついても、紫沢少年の心は変わらなかった。

(現実にいないのなら、僕がなる! 僕が夢を与えるんだ!)

 時代が移り、ブラウン管が液晶ディスプレイに変わっても、俊の心はあの少年の日
のまま止まっていた。
 あの少年の日のままで、止まっていた。そう、この崩れかけた建物においてきぼり
をくったことなど、目もくれずに。




ACT4-15:頂上決戦!


 べきっ!
 屋上へと通じる鋼鉄製のドアを、ジーラのハイキックが吹き飛ばした。
 鍵もかかっていないのに……である。

「きたな、トルコ人ども!」

 突如吹き飛んだ鉄のドアが、ガランガランと音をたてて床へ転がる。敵がきたのだ!
葉月はプレハブの屋根の上で身構えた。
 北風に吹かれて、敵を待っていた甲斐があった。馬鹿と煙は高いところにあがると
いうが、葉月はなみの馬鹿よりもひときわ高い位置からの御登場である。

「……あんたが弥生葉月ね?」
「ふ、トルコ人などに名乗る名はないわ!」
「そんなトコで何やってるの、馬鹿じゃないの?」
「……余計なお世話だ」

 馬鹿といわれりゃ、たとえそれが本当でも腹がたつ。
 当然仕返しをするのが葉月のルールだ。

「貴様のような熊女にいわれるすじあいはない! 何を喰って生きてるんだか知らな
いが、貴様のような奴はポリバケツで喰わないとワリが合わないだろ? そんだけの
仕事してるか? いつもタダ飯を喰っているんだろ、この穀潰し!」

 カチン! ジーラのプライドを葉月が刺激する。
 こんな見も知らぬ若造に、黙って侮辱されるいわれなどジーラにはないのだ。

「何ですって? もう一度聞かせてもらいましょうか?」

 一発殴って、目上の人に対しての礼儀ってものを教えてあげましょう。
 ……進みでた一歩目は、いきなり何かにひっかかる。

「……あら?」

 バランスが崩れ、ジーラは右手を床へついた。今度は床から手が離れない。

「はっはっは、こんなこともあろうかと!」

 ルイスの薬品庫から、にかわをたっぷりとくすねておいたのだ。
 そして、敵がやって来ることを予想して屋上の床にべったりと塗りまくっておいた
のである。
 今だからいうが、葉月は格好つけるためにプレハブの屋根に上っているのではない。
……にかわを塗っているうちに自分の足場がなくなってしまい、やむなく屋根に上が
らざるを得なくなったのだ。身動きできないのは、葉月もジーラと同じだった。

「……それじゃあ、アンタも動けないのね?」
「その通りだ!」
「馬鹿っ! どーしようもない馬鹿っ!」
「ふははは、貴様も道連れだあ!」

 床に這いつくばっているジーラと葉月は、唯一使うことのできる互いの口先で相手
を罵りあっていた。
 崩れかけの建物の中で、脱出しようにも出来ない状況。これを打破できるのは今や
もう一人しか残っていない。
 さあ、その人の名を呼ぼう。ドライダー・マスクを!

「誰が呼んだか知らないが、悩める子供たちの元にどこからともなく現れる! その
名は、ドライダー・マス……あ!」

 三重遭難だった。
 ドラえもんと同じカラーリングの強化ゴムスーツを着込み、口から下の切れている
青いヘルメットをかぶった男は、にかわに足をとられて両手をつく。

「……あ!」
「馬鹿、馬鹿、馬鹿っ!」
「みんな道連れだあっ!!」

 三人の馬鹿を屋上に縛りつけたまま、A棟は最後の時を迎えようとしていた。




ACT4-16:隣は何を……


 ついに来るべき時が訪れようとしていた。

 自重を支えきれなくなった公営住宅A棟の、8階が7階を押しつぶす。連鎖的に、
6階から上がガラガラと音を立てて、斜めにすべりおちるように崩れ始める。
 今、A棟はその姿を舞い上がる煙の中へ永遠に沈めようとしていた。



「崩れていく……職場が、家が……」
「大丈夫ですよ、首になったら農業工学科で面倒見てあげます」
「あ、ありがとうございますう!」

 泣き崩れる管理人氏を、白葉教授は慰めた。
 考えてみたら、職場と家を一気に両方失った管理人氏はかなりかわいそうなのかも
知れない。



 落涙といえば。

「ルフィーアァァァァ……」

 ただ、その一言だけをつぶやいた富吉の頬を涙がつたう。
 富吉に残ったのは、結局思い出だけ……ただ、待ってくれる人がいたというあの日
の、楽しかった思い出だけだった。

「負けないで下さいね。はい、おにぎり」
「は?」

 町内会の被災者救済おにぎりだった。
 暖かいおにぎりをくれた女の子は、富吉に微笑む。

「はい、どーぞ。困った時はお互い様よね。頑張ってね!」

 泣くな、富吉。
 いつまでも冬は続かない。いつか必ず希望があると、信じて今日を生きていけ!



 崩れるA棟を遠くから見ていた来々軒の店主は、野次馬の中に広田秋野を見つけた。
 ……見つけたぞ! 店主は、つかつかと広田に歩み寄る。
 広田に貸していた物のことで、彼はいわなければならないことがあるのだ。

「広田くん、アンタなんてことを!」
「……いや…その」
「ウチの岡持ちをあんな姿にして!」

 ……町内会長選挙の時、投票箱が無かった。
 そこで広田は一計を案じ、岡持ちに穴を開けて投票箱の代わりにしたのだが、それ
が来々軒の店主にバレたのである。

「ごめん、親父さん!」
「勘弁ならねえ! 当分ただ働きしてもらうよ、広田くん!」

 来々軒の店主は、カンカンに怒っている。
 どうやら、広田は当分ラーメン屋で皿洗いの日々を送らねばならないようだった。



「わたしたち……これからどうなるんでしょう?」

 不安そうに玉乃宙実は、井上教授を見た。
 そんな宙実の頭を、井上は軽くポンと叩く。

「大丈夫、真由子くんからも頼まれているし、家裁まできっちり面倒みるよ」

 今回の騒動は、弥生家だけに責任があるのではない。
 たとえ主原因が弥生家でも、その他のいろいろな落ち度があったことを家裁で主張
すれば、弥生家の立場は有利になるだろう。

「大丈夫、最低でも保護観察処分で済むさ。少年院にはいかないですむよ」



 葉月は、埃まみれになった顔を手で拭った。
 どうやら、体を横たえているこの空間は結構広さがあるようだ。体の方も、骨が折
れたとかそんな様子もない。せいぜいかすり傷くらいの怪我で済んだらしい。

「大丈夫か?」

 コンクリートの間から、どこかで聞いたことのある声が聞こえた。
 暗いところで一人ぼっちというのは、人間意外と寂しいものだ。声の聞こえる方へ
葉月は身を乗り出す。

「紫沢さんか?」
「そうだ。取材にきて巻き込まれたんだ」

 重なりあったコンクリートの間に出来た、かすかな隙間。
 運がよかったのだ。弥生葉月と紫沢俊は、そこにすっぽりとはまった形になったの
だ。コンクリートの塊に押しつぶされなかったのは、奇跡というしかない。

「紫沢さんは怪我してないのか?」
「ああ、こっちは大丈夫だ」

 声を出しながら紫沢は、必死で青いゴムスーツを脱いでいた。
 自分がドライダー・マスクだということは、決してバレてはならない秘密である。
正義のスーパーヒーローは、どこの誰だか知らないところにロマンがあるのだ。今回
は無様な結果に終わったが、次回こそ……必ず雪辱を晴らしてみせる!
 ここへ置いていくのはもったいないが、救助された時にスーツを着ていると自分が
ドライダー・マスクだということがバレてしまう。
 俊は再起を誓い、ドライダースーツをそっと隙間へと隠した。

「誰かいる? 助けにきたわよ!」

 天井のコンクリートが持ち上げられた。救助が来たのだ!
 いや、……そこから顔を出したのは、救助隊ではなくジーラだった。
 顔を覗かせたジーラを見て、葉月はふてくされた子供のように大の字に転がる。

 おもしろくなかったのだ。

 ……ジーラは、葉月にとって『大人の代表』、つまりは敵だった。そんな奴に助け
られるなんて、不名誉のかぎりである。

「生きてるよっ!」
「そんな顔しなくても……別に、アンタを責める気なんかないわよ。まだ、アンタは
若いんだから、大事なのはむしろ……これから、ね」

 ジーラは、にっこり笑って手を差しのべた。




 一つの生活は、いま、終わりを告げた。
 この崩れおちた残骸から、公営住宅A棟に住む人々はまた新しい生活を捜しにいく。
 あるものは縁島から去り、あるものは考える。
 隣の人は、何を考えているのかな? と。